2012年11月7日水曜日

鴻上尚史さんが書かれていた記事

不寛容について

鴻上氏の文書を、他人である私が抜粋、まとめることは、本人の意図と異なることがあり
私自身の解釈であることは了解頂きたいのですが、
私の解釈では
 他人、他者に対する不寛容さについて。
 具体的な例として、隣国や、町中ですれ違う人々にだったり。


そしては私は強く想う。
わかりやすい言葉で言うと、いらっとする自分、
いやだなと想う自分、それって、自分が想っても、想わなくても
結局なにも変わらなくて。

いらっとした場合としない場合。


いらっとした場合、その気持ちで自分がいやだなって想う。
いやだなって想った後に、いいことはなにもなくて。
いやな気分になるから、それはいやだなって想う。


いらっとしなかった場合、
まあ、あらら、もう~。
こまったなあ、まあ、ねえ。
って受け流した場合。
それで終わる。
だったら、そっちの方がいいじゃん。


そんな気持ちで毎日過ごしている。


それは出来るんだけど、

それが、他者じゃなくて、自分の知り合いに対してだとそうも想えない。
まあ、こまったもんだ。って受け流して終わらなくて、

その後自分が困っちゃうじゃん。って想うんだ。

でも、本当は、困っちゃう、事は起きない事が多くて、

本当は、いやだなあという気持ちが残るんだ。その後も。明日も明後日も。

なんで残るんだろう。他者、他人に対してはすぐ忘れちゃうのに。


しかも、しばらくたつと、なにに、いやだったのか、詳しいところが忘れちゃってるのに
いやだなあって気持ちだけ覚えているどころか、強くなってるの。

それがメールだったりすると、そのいやだなあってメールを見返してみると、
想ってたのと違ってたり、そう解釈しなくてもって文書だったり、
ぼくはなにを、いやだなってをおっきくして、ひとりでもっといやになってるのやら。

これが、メールで残ってない、話したことだったりは、記憶でどんなになっちゃってるのやらって。

そこを、考えてるんだけど。また考えよう。またあとでね。


でも、まあ、そんな感じなんだからね。ってことだから
知り合いに教えてもらった、たいせつなことば、
寝たら忘れる。
寝て起きても、忘れられないからこそね。ねたらわすれる。
そんなかんじでね。


ところで、鴻上さんの尚史という漢字が一発で変換出来ないなあと想い四半世紀のatok(^^;
太宰治は出てくるのに。へんだなあ、四半世紀。

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